私のこれまでのことが走馬灯のように駆け巡る。どこか空虚さがあった。この虚しさは一体どこから来るのだ?私は今、鮮明な波乱万丈の夢を見ている。刻一刻と夜明けが迫ってくるのを私は知らない。
何事も根本から追究しようとする男がいる。その男は、今や自明となっている定理や法則をそのままの形では受け入れられなかった。他の者は半ば鵜呑みとも呼べる形で受け入れ、そして成果を出していった。だが、その男だけはなかなか成果が出なかった。何をするにも不器用で、他人の数倍時間がかかってしまう。いつかは報われると何度も自分に言い聞かせた。だが、報われなかった。人間というものは弱い生き物で、成果が出ないと分かってしまうと途端に努力しなくなってしまうのだ。男は苦痛の日々を送っていた。早く成果が出ることに何の意味がある?ただ単に失敗しなかっただけではないか。だが、世界は失敗しなかった輩を優遇する流れになっていた。世界には様々な賞がある。それらを取得すること自体が悪いこととは言わない。だが、それを10代で取ることに何の価値があるというのだ。14歳で金メダルや主演男優賞を取ったから何だというのだ?10代で芥川賞を取ったから何だというのだ?史上最年少記録に何の価値がある?ただ失敗しなかっただけではないか。失敗を知らない輩が「努力は必ず報われます」などと言っても腹立たしいことこの上ない。報われない努力もあることを奴らは知らない。失敗しなかったことこそが最大の失敗であることを奴らは知らない。しかし、こういった真理というのは受け入れがたいものだ。世界が、早く成果を出したものを過剰に評価する流れになっていることに問題がある。
アンチと言えばそれまでだが、このような他人とは違った考えこそが〔批判屋〕という名の由来なのだろう。自ら〔批判屋〕と名乗るくらいだから当然相手の第一印象は悪くなる。〔批判屋〕とは、孤高な自分に対する蔑称なのかもしれない。しかし、なぜ私は自らを〔批判屋〕と名乗ったのだろう…。
対人関係、特に異性との交流関係で努力が報われないというのがあるかもしれない。故国ジパングの大学において私は3つのやり遂げられないことがあった。逆の言い方をすると悔いが残ったのはこの3つだけだ。3つのうち2つは学業関係のことで、これはまだ挽回の可能性はある。だが、残る1つが……。私と親しくなった異性は私の前からいなくなるという、ジンクスにも似た法則性が出来上がってしまった。私は物事を軽く考えられない。単なる偶然とは考えられないのだ。
過去の冒険を振り返る。どうしても助けたかった友達は助けられず、どうでもいいような輩に限って助かってしまう。努力とはそんなものなのか。このまま現実の世界に生きていても仕方がない。もういっそのこと、奈落の世界に君臨するか……。そんな諦観が私の脳裡を満たす。