フォボス内乱


 『フォボス内乱』は、3部に分かれている物語を1冊の本にまとめた作品です。著者は『エクセア』でお馴染みの宮原弥寿子氏です。
 『フォボス内乱』と『ダイモスの攻防』は、<ウォーロック>(かつて社会思想社が刊行していた雑誌)に掲載されたゲームブックで、どちらも女の子が主人公の冒険です。そして『フォボス内乱』と『ダイモスの攻防』の2つの作品の間に『マルスの黄昏』という宮原氏の書き下ろし小説があります。2つのゲームブックの間に小説が挟まっているのはこの作品だけの発想と言えると思います。
 この作品の舞台は「フォボス(Fobos)」「マルス(Mars)」「ダイモス(Dimos)」からわかる通り、火星が舞台です。「マルス」は日本語で火星を意味します。「フォボス」と「ダイモス」は火星の衛星です(私は「フォボス」「マルス」「ダイモス」という言葉をこの作品で覚えました)。
 それでは、各物語を見てみることにしましょう。
 『フォボス内乱』は、はじめ具体的な背景の説明はされません。主人公の女の子は自分が何者かを知らないからです。冒険を進めていく上で、自分が“ラートリー”と呼ばれるアンドロイド(ロボット)であること、パルジャニアと呼ばれる男を助けるという使命はわかってくるのですが…。主人公の戦闘能力は比較的強く、戦闘では負けにくいと思います。但し、自分がいくら無事でも生身の人間であるパルジャニアのことを考慮しなくてはなりません。宮原作品らしく、必需アイテムが全てそろっていないと真のエンディングにたどりつけない構造になっています。ただ、ひとつ難点を挙げるならば、最後は無理にラートリーを自爆させなくても良いのではないかと思います。116番にたどり着いたら<END>とはせずに『マルスの黄昏』に移ってもよいのではないでしょうか。116番からでも『マルスの黄昏』と話はつながります。恐らく、宮原氏の意図する真のクリアとしては、ラートリーが最終兵器を発動させて自爆することなのでしょうが、必ずしも自爆する必要はないと思います。
 『マルスの黄昏』は<マスター>と呼ばれる男――ヴァルカン――と侍女のイクミリアとの対話です。マルスにおいて革命が勃発します。次作品『ダイモスの攻防』の主人公の名前がシーファスである伏線となっています。148ページを読むと『フォボス内乱』においてなぜジャダス6世が悪事を企てたか、そして『ダイモスの攻防』においてなぜナール2世が理不尽な法令を施行したかがわかります。全てはヴァルカンの差し金だったのです。155ページから171ページを読み返してみるとわかりますが、ヴァルカンは、兄の呪縛から自分を解放するだけの力を持った英雄を心待ちにしていたのです。そのためにジャダス6世やナール2世という“悪”が必要だったわけです。それにしても、勧善懲悪(149ページ)という言葉が『マルスの黄昏』に出てくるとは…。1990年代中頃までの水戸黄門などはまさにこのパターンで、悪役が完全なる“悪”を演ずるからこそ英雄が際立つということですね。
 『ダイモスの攻防』は、『マルスの黄昏』の後のゲームです。こちらの主人公はシーファスという人間の女性で、超能力を持っています。「ESP撲滅令」という理不尽な法令を撤回させるために、そして戦死した恋人ジークの敵を討つために国王ナール二世を討伐しようとシーファスが立ち上がります。ナールは、死者の能力を吸い取るという恐るべき超能力を持っていますが、254番のクリア場面において、それが意外な結末をもたらしています。全てが万々歳と言いたいところですが、実は難点もあります。それは、クリアに必要なアイテムである磁気カードの入手方法です。まず、プライベートエリアの隠し扉(244番)を見つけなくてはならず、これにはサイコロ運が関わっています。もうひとつは、入手の手段です。隠し扉の部屋にいるゴールディから磁気カードをもらうには、こちらから喧嘩を売るしかありません。無駄な争いは避けるべき流れになっているのに、この展開は些か無理です。ゴールディも、『エクセア』の39番に登場したダーナ同様、自分から嗾(けしか)けるようなことはしていません。平和的に磁気カードを入手する手段を考えてほしかったところです。宮原作品には、時々こういった理に適わぬ展開があるような気がします。
 いくつかの謎解きは、いつもの場所にて(毎度おなじみです…)。
 エピローグを読むとわかりますが、『フォボス内乱』も『ダイモスの攻防』も、真に討伐すべきは<マスター>ことヴァルカンですね(少なくとも私はそう思います)。「真に討伐すべき存在」がだんだん明らかになっていくのが宮原作品の特徴かもしれません。こうしてみると、本作品は『ソーサリー』や『ドルアーガシリーズ』などの続編ものではなく、『マルスの黄昏』を中心とした別々の話という気がします。「同じ主人公が出てこない」のがこの作品の大きな特徴です。これは、教師と生徒の関係に似ています。教師にとっては“毎年のこと”ですが、生徒にとっては“一生に一度のこと”です。

 この作品あたりから、宮原作品には「女性作家による女性が主人公のゲームブック」というスタイルが確立してきたと思います。このスタイルは、後の作品『ギャランス・ハート』からも伝わって来ます。

2009/01/03


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