エクセア


 ここは、ファンデムのはずれにある聖なる森の入り口。今、この入り口には数多くの挑戦者が立ち並んでいる。
 ……全ては、ファンデムの王クリステ四世が急逝したことから始まった。残された3人の王女は、ファンデムに布令を出した。その布令とは、ファンデムの王族の募集だった。聖なる森にはマイスの神殿がある。そのマイスの神殿にある3つの宝玉を取ってきた3人の勇者を、自分たちの夫として迎え入れるというものだった。早速多くの挑戦者たちが聖なる森に集結した……。
 その中には、今は失われし小国エクセアの王子ラストーレ・エクセルムもいた。エクセアは数年前ファンデムの侵略を受けようとしていた。しかし、その瞬間エクセアはその地から消滅したのである――ラストーレを残して。なぜラストーレだけが残されたのか、それは未だ分からない。しかし、ラストーレの人生の目的は明らかである。失われた祖国エクセアを探し求め、取り戻すことだ。そのために、これまでファンデムの傭兵として生きてきた。
 今回の布令は、まさしくエクセアを探し求める絶好の機会だ。ファンデムの王族になれば何かわかるかも知れない。そう思い、ラストーレはこの布令に参加したのだった。警備員の誘導により、ラストーレは聖なる森に入っていく…。
 この、ラストーレ・エクセルムこそが主人公である。

 『エクセア』は、東京創元社がかつて開催していた第2回ゲームブックコンテストの入選作です。著者は、女流作家の宮原弥寿子(みやはら・やすこ)氏です。宮原作品は、この『エクセア』の他に『フォボス内乱』(社会思想社)と『ギャランス・ハート』(東京創元社)があります。
 この作品は、大きく分けて二部構成になっています。前半は聖なる森での冒険で、後半はファンデムの王族入りを果たした後の話です。
 前半は「双方向型」となっています。まずは、ファンデムの三王女の出した布令通り、聖なる森のどこかにある神殿の中までたどり着くことが冒険の目的となります。前半は、アイテムを持っているかいないか、または二度目以降に同じ場所へ来た場合は指定された番号へ進むことにより交通整理がされています。後半は「一方通行型」で、ファンデムの王族としての生活やエクセアに向かっての旅立ちなど、話が展開されていくようになっています。後半になって、主人公の本当の使命やエクセアの秘密などが解き明かされることでしょう。
 この作品での見所は、何と言っても前半の聖なる森で出会うライバルたちでしょう。出会ったライバルによって後半のストーリーが変わって来るのです。特に、聖なる森でサンクトスの王子シーザーと忠臣ネロを倒したか否かで、後半にサンクトスを訪れたときに場面が違って来ます。この場面については、この作品に登場する武器である鸞凰飛翔剣と雷鳴剣を持っているか否かで整理されています。持っているアイテムの有無で場面を整理しているのもこの作品の優れた点のひとつです。因みに、私が個人的に気に入っている後半のストーリーは、聖なる森で出会ったダーナ・ストゥティとラズールで再会するという場面です。ダーナとダーナの妹と夫の3人で仲良く暮らしている場面は、まさしく「王族になるよりも幸せ」に違いないでしょう。
 主人公以外の二人の救世主も魅力あふれるキャラクターでいっぱいです。“光の影”パーシー・シャウロ、“闇の星”コーラル・トルムもかけがえのない存在です。554番のエクセア王の言葉で、どちらが“山紫水明の鏡”あるいは“九曜の曲玉”を持つべきかがわかります。
 また、この作品は要所要所において人の生き方の教訓があると思います。例えば、458番においては為政者たるもの(組織の上層部)は決して民(組織の下層部)に背いてはならないことを意味しています。403番のように、ファンデムの統治下にある国に対していい加減な言動を取っていては支援を拒まれても仕方がありません。『海賊船バンシー号』でも述べましたが、人の上に立つものは絶対に下に背いてはならないのです。
 しかし、残念な点もあります。
 一旦魔法戦闘に入ると肉弾戦に戻れなくなることや580番の「憮然」という言葉の使用法が間違っていることなどもありますが、これらについては「そういうこともある」程度でしょう。それよりも、これだけストーリー性に富んでいて素晴らしかっただけにいくつか腑に落ちない面があります。
 まずは、プロローグです。「良い政治」を行なっている国が、他国を「侵略」するものでしょうか。良い政治で他国を傘下に治める大国は「侵略」という「押し」ではなく「同盟」という「引き」で治めるものだと思います。エクセアが破滅を導く公国であったのならば別ですが、ファンデムが「良い政治」という名のもとでエクセアを「侵略」するのは、「正義」という名で人を殺すのと何ら変わりありません。
 次に、この作品のクリア必須アイテムである鸞凰飛翔剣と雷鳴剣ですが、これらは「一対」であることが本来の姿であるにも関わらず、雷鳴剣は単なる鸞凰飛翔剣の引き立て役に成り下がっています。前半の聖なる森において「雷鳴剣に出来て鸞凰飛翔剣に出来ない」場面はありません。魔剣を使用する際には鸞凰飛翔剣を使用した方が必ず得であり、雷鳴剣では鸞凰飛翔剣の特典の一部分しかもらえません。雷鳴剣がなくてはならない理由は、ユージス・ルートとの闘いで鸞凰飛翔剣が折れる(644番)場面だけですが、これとて644番で雷鳴剣を持っているか否かだけのチェックしかされず、しかもその後雷鳴剣の重要性に関する記載は(『エクセア』の後日談に相当する『ギャランス・ハート』も含めて)一切ありません。これでは、雷鳴剣は鸞凰飛翔剣の「右腕」に過ぎず、雷鳴剣の存在価値も疑わしい限りです。
 そして、何よりもユージス・ルートに対する処罰が甘すぎます。647番を読めばわかりますが、ユージスは「浄化」された後、主人公にのみ忠誠を誓いますが、これも私に言わせれば自分勝手という他なく、不愉快極まりありません。聖なる森の乞食やサンクトスのキリエやその他大勢のユージスに殺された人を思えば、ユージスはそれらの人の供養に終生を捧げるべきでしょう。私が主人公であれば、「ジェナンはこれより貴殿に忠誠を誓おう」とユージスが述べた後、ユージスに巡礼の旅を命じます。『第七の魔法使い』は、この点は優れており、世界を破滅せしめんとしたダウマヌスを永遠に闇に葬ったことで溜飲が下がります。尤も、ユージスがなぜこのような悪に徹したのかは、宮原氏の次々作でもあり東京創元社最後のゲームブックでもある『ギャランス・ハート』を読めば分かりますが、だからと言って世界を破滅に追い込んで良いわけはありません。
 とは言え、これらの「残念」な点も『エクセア』が優れている作品であることを前提としているからです。この『エクセア』がなくては『フォボス内乱』も『ギャランス・ハート』もなかったと思います。
 また、今回は編集部に対する「否定の批判」も述べておきましょう。
 著者のあとがきの最後に「編集部より」という付録がありますが、この付録は中途半端です。「年齢の低い読者ではまず解けないだろうと思われるほどむずかしい」謎解きは2つ(350番と352番)だけではありません。エクセアの三種の神器のうちの二つである「山紫水明の鏡(578番)」及び「九曜の曲玉(233番)」を手に入れる謎解きの方が難しいくらいです。なぜこれらのヒントを掲載しなかったのでしょうか。恐らく当時の東京創元社の編集部長の頭では宮原氏の謎解きは解けず、しかもそれを認めたくはないという面があったと思います。このような中途半端にヒントを出すくらいならば、パラグラフの誤植の方に気づいて欲しかったところでもあります。このようなことをしていては、宮原氏に対して失礼です。
 林友彦氏のように、著者が巻末で謎解きの解を載せればよかったのですが、今更そのようなことを言っても始まらないので、例によって研究室で謎を解くことにしましょう…。

 ところで、この作品を宮原氏が書いたのは高校生のときだそうです。宮原氏のあとがきは私も共感するところが多く、妙に親近感を感じました。

2006/12/31


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