子の心親知らず


 本ページの内容は、2008年6月に起きた東京・秋葉原の事件についてである。冒頭に、この事件の被害者及びその関係者を誹謗・中傷する意図は一切ないことをここに明記しておく。他のサイトにおいては死刑囚に対し非難囂囂(ひなんごうごう)の羅列が飛び交っていることであろう。それを悪いとは言わないが、今更死刑囚に対する非難を悉く述べても何もならない。本ページでは、死刑囚の視点で私の考えを述べることにする。また、白黒反転すると更に複雑なことが書いてある。覚悟のある方のみ白黒反転されたい。尚、これだけ警告したにも関わらずこの先の記事を見た場合は、その後どんなに不快に思っても「否定の批判」は一切受け付けない私のこの考えに賛同できない方は、今からでも遅くはないので速やかにこのページから退出していただきたい。






 2022年7月26日(火)、加藤智大死刑囚の死刑が執行された。最高裁判所で死刑が確定してから約7年5ヶ月後の死刑執行だった。控訴・上告後、最高裁判所での死刑判決だったから、本人としてはある程度納得していたと思う。また、近年はオウム真理教事件における死刑執行の影響で再審請求中の死刑執行も厭わない傾向にある。加藤死刑囚の執行も十分な理由と言えるだろう。
 まず、加藤死刑囚の境遇についてである。既に色々な番組で報道されているが、加藤死刑囚の家族運、とりわけ母親運は疑いようもなく大凶であり、こればかりは持って生まれた運としか言いようがない。子は親を選べないのだから。私が加藤死刑囚に対して一つだけ「否定の批判」をするならば、なぜ「自分の顔が悪い」と決めつけていたのかということである。加藤死刑囚の顔が現在の視覚的な水準を上回っているかどうか、即ち「カッコいい顔」かどうかの評価は定かではないが、私は加藤死刑囚の顔が「悪い顔」とは思わない。中学時代は成績優秀で部活動でもそれなりの実績を上げていた加藤死刑囚に好意を寄せる異性もいたという。それにも関わらず、加藤死刑囚が晩年「男は顔だ」と主張していた原因は一つしか思い当たらない。「異性運」は自分にとって一番身近な異性に左右されるという恐ろしく分かりやすい例である。ギリシャ神話に出てくる鍛冶の神ヘパイストスの気持ちは、加藤死刑囚のような境遇でなければ分かるまい。
 個人的には、この事件は加藤死刑囚の母親に対する“己が命と引き換えの復讐”に思えてならない。こう述べると、閲覧されている方の中には「無差別に7人殺すよりも母親を直接殺すべきだ」と思われる方もあるだろうが、そんな単純な話ではない。第一、それで済む話ならばこのような大惨事は起こり得なかったであろう。加藤死刑囚は“殺人犯の母親”ひいては“死刑囚の母親”として生き永らえることが“息子に殺される”よりも辛いことであることに気づいていたに違いない。7人も殺せば死刑は免れないことは加藤死刑囚も重々承知していたはずである。身の回りの物を全て処分して秋葉原に向かったわけであるから、加藤死刑囚が死刑を覚悟の上で殺人事件を起こしたことは容易に推測できよう。この点については加藤死刑囚の思惑通りに事が運んだと見える。事件後、加藤死刑囚の母親は“自分が死んだ方がまし”と思わない日はなかったに違いない。そして、加藤死刑囚の母親に安らぎの日が来ることは金輪際ないであろう。
 加藤死刑囚の母親からしてみれば、何としても息子を県立で一番の高校に合格させ、自分ができなかったことを成し遂げてもらいたいという気持ちがあったのかもしれない。だが、母親のこの気持ちは明らかに歪曲している。この時点で「子の心親知らず」と言われても文句は言えないだろう。というのも、母親失格という烙印を押されても文句の言えない仕打ちを息子にしてきたのだから(どんな仕打ちをしたのかは検索サイトでわかることなのでここでは省く)。他サイトの中には「青森県で一番の進学校に受からせた実績」と母親を賞賛しているサイトがあるが、それならば加藤死刑囚と同じ高校に進学した人の中に加藤死刑囚のような目に遭った人が何人いると思っているのか。恐らく、そんな仕打ちをされて合格したのは加藤死刑囚一人だけだろう。加藤死刑囚にしてみれば県立一の高校に合格することよりも、自分のペースで勉強や部活動などをする方が大切だったのである。これは「強い」運動部の醜い現実にも共通することでもある。「厳しい練習」に対して「得た成果」があまりにも少なすぎるのが大半の「強豪チーム」の現状であろう。本来クラブや部というものは「楽しむ」ために入るものであり「苦しむ」ために入るものではない。トップレベルを無理に目指さず、自分に合った成果で満足するという考えであっても一向に構わないと思う。もう一つ、塾や予備校などで掲げている「合格実績」とやらは、飽くまでも各生徒の人生の中間発表に過ぎず、最終的な結果こそが真の合格実績ということを忘れてはならない。加藤死刑囚の母親の教育方法を例にとると、県立青森高等学校の合格は単なる中間報告に過ぎず、最終的な実績は殺人犯から死刑囚ということになる。即ち、加藤死刑囚の母親は「県立青森高等学校に合格する教育方法」ではなく「人殺しを育てる教育方法」をしてきたことになる。
 それから、この事件に関してはどのテレビ局も如何に視聴率を稼ぐかに重点を置いた偏った報道になったことも忘れてはならない。7人の犠牲者のうち唯一の女性の犠牲者ばかりを取り上げて、他の犠牲者をおざなりに報道していたことに関しては、犯人よりも報道関係者に対する怒りを覚えた人も少なくない。犠牲者の女性は、現代の男性の八割以上が「美人」と思う女性だった。それだけにこの女性のことを大々的に報道すれば視聴率が取れると思ったに違いない。それで、他の6人の男性犠牲者の報道が二の次になったのだろう。ある男性犠牲者のご両親はこの事件が原因で離婚したと聞く。しかし、多くの報道陣はこの男性犠牲者よりも女性の犠牲者の報道を優先した。しかも無職の犠牲者を「間違って」呼び捨てにする報道もあったという――これは、あってはならない「間違い」である。現に、このことだけで「無職の人だけを差別している」という声も挙がってしまったのだから。また、加藤死刑囚の弟を自殺に追い込んだ責任も重大である。6人の男性の犠牲者及び加藤死刑囚の弟は、それこそ稚拙な報道の被害者になってしまった事件と言えるだろう。
 私が加藤死刑囚に聞きたかったことは「7人死亡、10人負傷」というこの結果に満足しているかということである。推測するに、加藤死刑囚はこの結果に満足しているように思える。何しろ、人生の「勝ち組」を歩んできたと思われる人たちの一部に一矢を報いたのだから。最たる例は女性の犠牲者である。現代の男性の八割以上が「美人」と思う容姿、名門都立高校を出て名門音楽大学在学中である彼女は間違いなく「勝ち組」の方に属していたであろう。そういった「勝ち組」の一人を死に追いやったのだから、加藤死刑囚としてはある程度満足のいく実績を上げたに違いない。自らを「負け組」と称し「勝ち組」に一矢を報いたい気持ちは「負けた」ことのない輩には決して分かるまい。極一部ではあるが、加藤死刑囚を心底評価している人達もいる可能性がある。喩えるならば間接的な「敵討ち」である。犠牲者の女性に対し敵愾心を持っている人達の視点に立ってみれば、加藤死刑囚を評価する気持ちは理窟抜きでわかる。逆に、犠牲者の女性に対して敵愾心を持っていても「何もそこまですることはないだろう」と思っている人もいるであろうが。
 「負け組」が「勝ち組」になることはできないが「勝ち組」が「負け組」になることはできる、こんな気持ちでこのような事件が起きたのは、加藤死刑囚も被害者も悲劇であろうが、今となっては加藤死刑囚の真の目的はもう誰にも分からない。
 「親の心子知らず」とはよく言うが、これは仕方がないと思う。なぜなら、まだ親になっていない子が親の心を知らないのは当然のことだからである。しかし、「子の心親知らず」という諺が普及していないのは、昔からの因習が残っていると言わざるを得ない。以前、あるテレビドラマで「子の心親知らず」と言い間違えた女の子が周りから嘲りの目を向けられるといった場面があったが、私はこの女の子の言っていることこそ正鵠だと思う。親もかつては子だったのだから、子どもの心を知らない親というのは親失格である。
 この事件は、日本全国の息子を持つ母親に対し『負の遺産』として教訓を遺すだろう。ヘパイストスの如く実の母親を恨む息子がいなくなることを、加藤死刑囚のような境遇の息子がいなくなることを願いつつ、この批判を終えたい。
 加藤死刑囚の来世に多幸あらんことを。


2022/07/26


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