なぜ「スゴイ」のか


 会話に「スゴイ」人が出てくることがある。しかし、その理由が「あの人は東京大学を出ているからスゴイ」と続いたりする。東京大学でなくても、有名企業に勤めている、国家試験を通った、などとという理由が続いたりする。しかし、冷静に考えてみると、その人は本当に「スゴイ」のだろうか。
 例えば「東京大学を卒業(あるいは在学中)だからスゴイ」という誉め言葉があったとする。これは「東京大学がスゴイ」「だからその東京大学に受かった人はスゴイ」という図式である。ここで注意すべきことは「東京大学がスゴイ」のであって、その人自身がスゴイわけではないことである。
 考えてみると、この誉め言葉はかなり残酷である。何しろ、知らず知らずのうちに人をモノ扱いしていることになるのだから。逆に、こういった誉め言葉をされた人が何かの不祥事を起こすと「東京大学のくせに」と、普通の人よりも責められることになる。この言葉には「そんなスゴイ東京大学出身なのだから、できて当たり前」という前提があるからである。
 人の価値というのは、肩書きで決まるわけではない。私がどのような免許・資格を取得しても私自身の本質に変わりはない。肩書きで判断されると、私はモノ扱いされていることになる。とは言え、初対面のときは「モノ」で判断されることがあるのは致し方ない。問題は、その後である。私の肩書きなどではなく、私自身の本質を評価されると嬉しいと思う今日この頃である。

2020/12/25


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