本来の楽しみ方を


 アマチュア・プロフェッショナルを問わず、スポーツや囲碁・将棋などの所謂「勝負の世界」に関しては「勝利至上主義」が横行している。「勝てば官軍負ければ賊軍」の如く、即ち勝つことこそが最も大切で、更には勝てば何を言ってもよいと勘違いしている輩も多い。
 「敗軍の将は兵を語らず」という諺も手伝い、「勝軍の将」のみの言動が取りざたされ、勝てば何を言っても通るのが通例になってしまっている。確かに「○○だから勝てた」という物言いであれば、論理学的には「正しい」。結論が正しければ(つまり仮定が間違っていれば)何を言っても「正しく」なることは論理学的に保証されている。しかし、勝利から逆にたどる過程というのは途中で美化されていることが多く、勝ったが故に失ったものが水面下に没している可能性が極めて高い。
 中学校や高等学校の部活動で、よく「熱血顧問」「熱血コーチ」と呼ばれる輩が、負けた現役の選手を厳しく叱責する。しかし、そんなことをするから選手は伸びないし、むしろ人間的に屑になっていくということを知らない。そういった「熱血」と呼ばれる輩は、選手の勝利を自分の「手柄」と捉えているのである。つまり、うまくいったら自分のお蔭、うまくいかなかったら選手の所為(せい)という思想の持ち主なのである。中学生や高校生の現役選手の大半は、自分の現役時代のピークだった実績をまだ超えていないので、自分の方が優位と勘違いし、厳しく叱責するのである。そういう「熱血」と呼ばれる輩は次第に疎まれ、やがて人が離れていき、そのスポーツの本質すら一生分からずに終えるのである。
 私立学校ではよくあることだが、ある特定の部活動に所属している者は、当番制で行う学校の雑用(放課後の掃除当番など)を免除する制度を採っていることもある。「掃除をする暇があるなら練習しろ」ということだろうが、それは免除されている生徒に対する差別につながるように思う。なぜなら、中には「自分もみんなと同じように掃除当番をきちんとすませてから部活動に出たい」という人もいる可能性もあるからだ。これは「勝つ」ことが優先されているからであり、本来の「楽しみ」とは反することになる。面白いことに、特定の部活動でも掃除当番をしっかりする学校の方が試合に勝ち進んでいるようだ。
 これまでとは逆に「ただ単に競技を楽しみたい」というきっかけでスポーツを始める人もいるだろう。勝った負けたは二の次で、楽しく(無論他人に迷惑をかけない・怪我やトラブルがないことは前提として)プレイできればそれで良いという人もいる。こういう人達を「勝利至上主義者」たちは「本当の楽しさがわかっていない」と非難するが、私に言わせれば「勝利至上主義者」こそ本当の楽しさどころか本質が分かっていない輩である。勝つから楽しいのではなく、楽しいから勝とうとするのが自然な流れではないのか。
 勝つことにしか価値を見出せない輩は、勝てなくなった瞬間にその存在価値を失う。勝ち負けよりも楽しむことに重点をおいた人は、勝っても負けても最後は楽しく終わる。さて、どちらの方が結果的に楽しい人生なのでしょうか。

2020/08/31


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