なぜ悪業は消えないのか


 Aという者が、己の過失(故意ではなく、悪意のない過失)によってBという者に対し取り返しのつかないことをしてしまった。その結果、Bを死に追いやることになった。Aは己の過失を悔い、己の言動を改めるとともに、定期的にBの供養を終生行うことを誓った(無論実行している)。その結果、C、D、Eという3人に対してはBと同じ過ちを繰り返すことがなかった。
 さて、AのBに対する悪業(AのBに対する罪)は消えるだろうか。即ち、AはBに対して償ったと言えるかどうか。
 正解は「消えない(償っていない)」である。なぜなら、既にBに対して取り返しのつかないことをしてしまい、その上死にまで追いやってしまったので、Bに対して償いようがないからである。
 確かに、Bを死に追いやってからのAの言動は、悪業を負った者としては「善い」行いであり、これはなかなかできることではない。Bによって得た教訓によって、以降の己の言動を改め、後に3人が助かった。己の言動を何も省みない輩よりは良いのは明らかであろう。しかし、残酷な言い方をすると、Aの改善はAの悪業をこれ以上増やさなかったに過ぎず、Bに対してはAの努力が全く反映されていないことは変わらない。もし、Bに対する悪業を消したいのであれば、Bを生き返らせ、Bに対して償って初めて悪業が消えるのである。無論、そんなことは現実にはできないであろう。
 結果的に、Aの得た教訓はC、D、Eに対しては生かすことができた。しかしながら、最も生かすべき対象であったBに対して生かされていない。だから、Bに対しての悪業は永遠に消えることがないのである。
 極端な例を挙げたが、知らないうちに他人を不愉快な目に遭わせたり、傷つけたりしていることはよくあると思う。もし、そのようなことが判明したならば、取り返しのつくうちに償った方がよいであろう。取り返しのつかない状況になったり、まして死んだりしてからはもう遅いのである。失敗から得られる教訓というのは確かに尊い。だが、そこには消えない業も潜んでいることを我々は意識していく必要があるだろう。

 今回は宗教的・哲学的な内容だったため、表現が多少分かりにくかったと思います。また、専門的な知識のある方はこの批判に矛盾点を見出すことがあると思います。ご意見・ご感想・ご批判は承りますので、掲示板に書いていただければ幸いです。

2020/07/03


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