3辺≠3組の辺?


 先月(2012年11月)、中学2年生の生徒からこのような話を聞いた。学校の数学の時間で三角形の合同条件を習ったとき、「3辺*それぞれ等しい」はダメで「3組の辺がそれぞれ等しい」としなくてはならないと学校の先生に言われたという。私はこのとき「この学校の先生は、厳密さと杓子定規の違いがわかっていない」と思った。現に、本屋さんで売られている参考書や問題集の中にも「3辺がそれぞれ等しい」と表記していることがある。ちなみに、私の中学時代の数学の先生は「表現が長くて嫌な人は『3辺相等』で良い」とおっしゃっていた。そして、私は『3辺相等』で模試や入試も通った。
 しかし、この話には後日談がある。現在の文部科学省学習指導要領(難しく聞こえますが、要は文部科学省発行の「ああしろ、こうしろ」というマニュアルです)の改訂(改定?改悪?)版には、三角形の合同条件は「3組の辺がそれぞれ等しい」と書いてあるそうである(私は実際に見ていないので伝聞でしかないが)。このことを私立中学校の教員をしている私の大学時代一番の友人に尋ねてみると「『3組の辺がそれぞれ等しい』の方が無難だが『3辺がそれぞれ等しい』でも大丈夫だろう」という折衷案をとっているらしい(注:これについては私ALADDINの思い込みや誤解の可能性があるので、必要に応じて修正することがあります)。どうやら「3辺がそれぞれ等しい」では「正三角形」と間違える可能性があるとのことだ。
 そうは言っても「3組の辺」はよくて「3辺」は絶対にダメというのは、それこそ厳密さを完全に履き違えている重箱の隅、杓子定規のレベルとしか言えない。特にマニュアルの作成元が。くだんの学校の先生も学習指導要領に遵守しているというのは分かるが、学習指導要領の奴隷になる必要はないと思う。大学の数学科では、いろいろな表記方法が出てくる。それらの表記は統一されておらず「どれでもよい」となっている。なぜそれが中学校の数学に適用されないのだろうか。「生徒を迷わせない」という考えもあるかもしれないが、その真の姿は生徒を画一化して「管理する側に都合の良い」ようにしているだけではないのか。
 数学は哲学を知らないとできない学問である。どんなに入試問題を鮮やかに解こうとも、哲学がなければそれは本当の意味で数学が出来ることにはならない。中学数学や高校数学に致命的に欠けているものこそ哲学ではないのだろうか。

* この文章を読んでくださっている方の中には「『それぞれ』もいらないだろう」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、「それぞれ」は必要です。その理由は、合同な図形は何と言っても頂点の対応が大切で、この「それぞれ」という言葉が頂点の対応を保証しているからです。

2012/12/24


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