「但し」出題者は受験者に配慮している


 学校の定期試験や模擬試験、入学試験や入社試験、更には検定問題などにおいて、よく但し書きがある。「但し、速さは一定とする」「但し、紐の質量や体積は考えないものとする」など、こういった「但し」がない試験問題を探す方が至難の業である。では、この「但し」にはどういった意味があるのだろうか。
 辞書的な「但し書き」の意味は、前文や本文に対して条件や例外や説明を付け加えた文と解釈される。法律でも「但し、〜の場合はこの限りではない」などと使われ、「〜の場合はこの法律に当てはまりません」という解釈に用いられる。試験問題に出てくる「但し書き」を読んでいると、時に何を書いているのか意味がさっぱりわからず、受験者を迷わせるために但し書きがあるものと思っている人もいるかもしれない。しかし、現実は全くの逆で、試験問題に出てくる「但し書き」は、受験者を迷わせないための出題者側の配慮である。
 試験問題に出てくる但し書きには、大きく分けて2つある。分かりにくい但し書きと、分かりやすい但し書きである。
 分かりにくい但し書きとは、一見何を書いてあるのかさっぱりわからない、あるいはバカみたいなことが書いてある類の但し書きである。そのような但し書きは、ほとんどの場合無視して構わない。というのは、分かりにくい但し書きを読み返してみると、問題文の状況を単純化する、分かりやすくするものがほとんどだからである。例を挙げよう。 「100sの木材を電気鋸(チェーンソー)で4等分しました。1つあたり何sでしょうか。但し、電気鋸で切断する際、大鋸屑(おがくず)は一切出なかったものとします。」 この例の「但し」以下の文面は、単純に100÷4の計算式を保証しているに過ぎない。一見すると馬鹿馬鹿しい文面だが、この但し書きがないと論理学的に後で大変なことが起こる可能性がある。実は、論理学的には「前提として書かれていない事象はどう解釈してもよい」ことになっている(専門用語で説明すると、前提が間違っていた場合、結論に何が来ても命題全体は『真』、つまり「正しい」ことになる)。「ひねくれ者」「屁理屈」「常識で考えれば分かるだろう」などと反論される方もいらっしゃると思うが、残念ながら論理学に「常識」という言葉はない。勿論、大鋸屑云々を主張する輩は物事を素直に考えられない輩であることは疑いようもないが、理数系の問題の場合(文科系もそうであるが)、但し書きがなかったことが原因の出題者側の意図しない解答は受容せねばならず、但し書きをしなかった出題者側の責を問われてしまうのである。但し書きがあれば、「但し書きの条件に合わない」としてひねくれた解答を切り捨てることができるのである。更に、ひねくれた解答をする輩を「悪質な輩」として処断することもできる。
 また、但し書きで具体的な数値を提示することもある。それは、普通は覚える必要のない細かな数値(これ以上簡単にできない√の近似値や常用対数の値、物質の密度など)や、受験生の知識の範疇を超える内容(普通の受験生では求めることのできない数値など)を問題で用いるとき、情報として提供することがある。そのような場合は、但し書きがないと「絶対に」できない。だから、具体的な数値のある但し書きは読む必要がある。
 これまで述べてきた通り、「但し書き」は決して受験者の敵ではなく、むしろ味方である。但し書きに具体的な数値があればその数値を用いることによって問題を解くことができ、具体的な数値がない場合は余計なことを考えなくてよいという保証の役割を果たしている。
 このサイトのこのページをご覧になっているあなたが今後「但し書き」に出くわした場合、「但し書き」に対する見方が良い方向に変われば幸いに思う。


2020/07/31


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