自動詞か他動詞か


 自動詞とは主語自身の動作を表す動詞であり、他動詞とは他から動作を受ける動詞である。大抵は、「が」がつけば自動詞、「を」がつけば他動詞である。例えば「生徒東京大学に入る」の「入る」は自動詞、「生徒東京大学に入れる」の「入れる」は他動詞である。もう一つ例を挙げると「実績が出る」と「実績を出す」である。
 なぜ、最初にこのようなことを述べたか。それは、この自動詞と他動詞の使い方で教師の人間性が決まるからである。人間的に素晴らしい教師は自動詞を使い、人間的に屑の教師は他動詞を使うものである。全部が全部とは言わないが、私立学校の教員や予備校の講師などは他動詞を使う傾向にあるようだ。
 私の高校時代の化学の教師で、2人の教師がいた。一人は「自分の教え子が2人東京工業大学に入った」とおっしゃり、もう一人は「俺はこいつらを大阪大学に入れた」と言っていた。言うまでもなく私は「入った」とおっしゃった先生の方を支持した。東京工業大学と大阪大学のどちらが上などということは関係なく、「入った」と「入れた」は意味合いがまるで違うからである。
 自動詞は、生徒の努力が報われたことを祝福する意味合いが込められているように思う。生徒主体でものを考えれば、生徒が主語の自動詞が自然に出てくるであろう。これに対し、他動詞は、生徒の努力も全ては自分のおかげという非常に恩着せがましい意味合いが込められている。教師というのはただ勉強を教えればよいというものではなく、教科を通して生徒の夢の実現を手助けするのが目的である。生徒が合格した⇒自分が生徒を入れた⇒自分が実績を出したという愚かな思想この上ない(但し、裏口入学などに加担すれば「生徒を入れた」ということにはなるだろうが、しかし教師失格であることは変わりはない)。
 概して教員というものは一つの教科に対してある一定以上の知識があるため、最も天狗になりやすい職業である。そのため、人間の屑に成り下がる輩が多い。ただ勉強を教えるだけの「技術屋」ならば、それと同等の知識をインプットしたコンピューターでも導入すればよいであろう。
 今の時代は、技術よりもまず人間性が問われる時代に思う。数年、数十年経ったときに他動詞を使っている人間の屑にならないよう心がけている今日この頃である。

2011/11/13


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