絶対評価の履き違い(後篇)


 現在、中学校での各学期の評価は「絶対評価」になってきています。
 「絶対評価」とは、順位を上からつけずに飽くまでも当人の評価点で成績をつける評価方法のことです。
 昔の「相対評価」では実現できなかった「100人中8人に5をつける」ことは確かに実現しました……

が!!

 しかし、現状は以下のとおりです。

 絶対評価は「全員5」という状態もありうる反面「全員1」ということもあります。しかし「全員1」をつけると、教師も自分の教え方を問われますから教師側としても1はなるべくつけたくはありません。そこで、高い下駄を生徒に履かせることによって2にし、1は教師の機嫌を損ねた生徒だけがつけられるという、言わば「教師へのゴマスリ社会」と化したのです。

 何だか当初の目的とだいぶかけ離れていますね。
 現在の「絶対評価」の履き違いのせいで、私立高校が公立中学校の教員の評価を信用しなくなったのです。
 現在は「塾推薦」なるものが確立し、特に私立学校は「学校の評価」ではなく「塾の評価」を信頼するようになりました。学校が主で塾が副という本来の姿が、文字通りの主客転倒となっています。我が物顔でのさばる学習塾も学習塾ですが、「手抜き教育」をして来た公立学校も公立学校ですね。
 尤も「昔は良かった」という気は私には微塵もありません。なぜなら、今の「学級崩壊」は、元をたどれば明治時代までさかのぼるからです。
 明治時代までさかのぼる必要はありませんが、昭和の中期頃までは「学校の教師」の権力が絶大かつ絶対で、たとえ間違っていても「学校の教師が『烏は白い』と言ったら烏は白くなる」という暴論がまかり通っていた時代と聞きます。
 そういった環境で育った人が大人になり、親になり、その子供に自分たちの辛かった時代を教え、「学校の教師は間違っている」という認識を植えつけ、それが今の「学級崩壊」につながったと私は考えています。つまり「学級崩壊」は過去の「教師が絶対」という時代のシワ寄せなのです。
 今でも自分の非を認めず「これは(生徒の)誰かが間違いに気づくかどうか試すためにわざと間違えた」などと言う小学校教師がいると聞きますが、そのような教師こそが「学級崩壊」を招いたと言っても過言ではありません。なぜ自分の間違いを素直に認めないのでしょうか。恐らく「教師は間違えない」という変な認識を(その教師の)子供時代に植えつけられているのでしょう。そうなると、やはり明治時代までさかのぼる必要があるのかもしれません。ともあれ、今の中学校は「絶対評価」を完全に履き違えているのです。
 前篇での重要事項を繰り返します。

 「絶対評価」の本来の目的は、学校の教員による生徒一人一人の正当な評価をするためです。




2007/03/09


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