立場の区別


 「生徒から見れば、誰も彼も同じ“先生”となる。」

 この言葉は、「ベテラン教員」が「新人教員」に言う言葉である。確かに、これはその通りであり、注意しなくてはならない。「ベテラン」こそが。
 私立学校や2世代以上に渡る学習塾などでは、かつての教え子を「教員」として迎える「ベテラン」もいることだろう。最も良い例は教育実習である。「かつての教え子」が実習生として来た時、その「教え子」は、もはや自分の生徒ではなく「先生」であることを「ベテラン」は忘れてはならない。つまり、絶対に「かつての教え子」を「今の生徒」の前で呼び捨てにしたり、「お前」呼ばわりしてはならないのである。
 これに反した「ベテラン」は死罪に相当する。

 なぜか。
 第一に、「今の生徒」と「今の先生」の区別がついていない――誰が生徒で誰が先生かがわからない――など、今の生徒でも分かる理屈が分からぬ輩に「教員」なるものが務まるはずもないからである。また、「今の生徒」と「かつての教え子」を同じ立場にしては「かつての教え子」の立場がなくなり、「かつての教え子」を「今の生徒」たちが甘く見る要因を「ベテラン」が作るというものもある。
 無論、生徒がいないときにはこの限りではないし、例外(例えば、教員が生徒に不法行為をはたらいた場合など)もある。だが、生徒から見ればみんな同じ「先生」である。そのとき、教員間の上下関係を生徒に見抜かれては、その教育機関内の規律を乱す原因となりかねない。
 「生徒から見れば、誰も彼も同じ“先生”となる。」などと言っているくせに、自分でこの意味がわかっていない「ベテラン」が多い――これが現在の教育機関の実情である。いや、昔からそうなのかも知れないが。
 こんなことを言うと「別に本人は何とも思っていないからいいだろう」と反駁する「ベテラン」もいるかも知れない。だが、それは「言わない」だけであって、決して何とも思っていないわけではない。ならば、反対の立場になって考えてみたらどうだろうか。自分がそうされたらどう思うか。
 尤も、生徒と先生の区別がついていない「ベテラン」に限って、自分には甘い。生徒に授業中の姿勢の悪さを注意しておきながら自分は机に腰かけたり、立ち歩きながら物を食べたり、道路に痰を吐いたり、歩行喫煙などをしたり…。こんなことをしている奴が「先生」と呼ばれる職に就いているものだから背筋が寒くなる。ここまで来ると、もはや教員の能力の問題ではない。人間性の問題である。
 「教員研修」とは名ばかりで、一番研修せねばならぬことを一番軽視していると思っているのは私だけなのだろうか。

2006/12/20


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