“先生”としての本当の値打ちは…


「あなたの“先生”としての本当の値打ちはどこにあると思いますか?」

 今、「先生」と呼ばれる仕事をしている人にこう問うてみよう。これに関する答えは、無論十人十色で、人によって違うことだろう。それは、どの教育機関に所属するかによっても違うと思う。例えば「多くの生徒を一流校に進学させていること」と答える人もいれば「自分が顧問の部を大会で優勝させた」と答える人もいるだろう。確かにそうかもしれない。しかし、それらは飽くまでも表面的な評価に過ぎない。例えば、いくら校長や保護者が「あの先生はいい先生だ」とは言っても、それはその「先生」よりも「上」の立場による評価であって、全体の評価ではない。
 実は、その人の「先生」としての真の値打ちを知る立場はたった一つしかない。それは「生徒」である。先の例で逆の言い方をすれば、保護者や校長の評価がいくら危うくても、生徒から信頼されている先生の方が値打ちがあるのである。
 例えば、小、中、高等学校の教育職員(以下教員)になるために行う教育実習の「評価」は「指導教官(大抵は現役の教員)」が行う。これは、生徒からの評価はどうでもよくて「指導教官」の受けさえよければよいことを意味する。教育実習の真の評価を知る者は「生徒」だけである。いくら「指導教官」が偉そうなことを言っても、「生徒」が「教育実習の先生の方が良かった」と言われては「指導教官」としての立場はない。
 このような話をすると「たった2週間乃至は1ヶ月程度で何がわかる」と思う「指導教官」もいるだろうが、しかし、それは既にその「指導教官」が「生徒」や教育実習生を甘く見ている証拠である。「先生」が「生徒」を見ている基準というのはせいぜいテストの成績面からに過ぎない。しかし、「生徒」はその「先生」の人間性まで見抜くのである。「この先生は自分のことを思っているかどうか」まで十中八九見抜くのだからその鑑識眼は侮れない。
 これは、自分が「生徒」だったときを思い返してみるとわかるだろう。「生徒」が「先生」の気持ちを分からないのは仕方がない。「先生」の立場になったことがまだないのだから。しかし、かつては「生徒」だった「先生」が「生徒」の気持ちを察しもせず、ただ「ああしろこうしろ、あれはダメこれもダメ」などと言うのは、既に「先生」の怠惰な気持ちが表れている証拠である。
 学校の「先生」なり、塾の「先生」なり、病院の医師なり、カルチャースクールやスポーツクラブのインストラクターなり、ともかく如何に「生徒」に慕われているかが問題であろう。「生徒」からの支持率がなくなっては一巻の終わりである。
 では、どうすれば「生徒」からの支持が得られるか?
 これは非常に難しい。何しろ「生徒」の性格こそ十人十色ならぬ“万人万色”くらいになるのだ。ただ、これだけは確かだ。いかに「生徒」に忠実になれるか。いかに自分に厳しいか。生徒の喜びを自分の喜びのように感じ、生徒の辛さを自分の辛さのように感じる。決して「上」の立場に評価されようとする「下心」などを持たない。これらがあるかどうかだろう。

 では、改めて問う。

「あなたの“先生”としての本当の値打ちはどこにあると思いますか?」

2006/11/26


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