学校と学習塾の関係


 私は、この夏ひょんなことから学習塾の非常勤講師として勤務していました。
 大学時代にも学習塾の講師の仕事をしたことがあり、また教員免許も一応持っていますので、実際に学校の教壇に立ったこともあります。「先生」などと呼ばれるのは未だに慣れず、私自身は「先生」などと呼べる代物ではないと思っています。それに、周囲から「先生、先生」などと呼ばれ続けると、いつの間にか「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」などと陰口を叩かれる原因にもなりかねません。
 それでも学習塾の生徒から見れば、私は立場的にはどこからどうみても「先生」ですし、生徒は私のことを「先生」と呼ぶしかないでしょう。ですから、生徒から「先生」と呼ばれる状況に甘んじているという状態です。
 不思議なもので、「先生」を演じていると、いつの間にか「先生」らしくなるものです。特に、生徒の前では絶対に不義不忠の言動は許されません。これは、私より“上”の立場(学習塾の経営者や生徒の父兄)にある存在に許してもらえないというのではなく、生徒に許してもらえないのです。一旦「先生」の威厳が失われると、それを回復するのはほとんど不可能です。
 実は、「目上」からの評価よりも「目下」からの評価の方がはるかに厳しいのです。これは、「先生」と呼ばれると分かります。生徒からの評価はごまかしが一切効きません。そして、「目下」は軽んぜられやすい立場にあるので、これが盲点となります。
 いくら校長や父兄から評判が良くても、生徒から不満の声があっては何にもなりません。これは、学校も塾も同じです。

 では、学校と塾では、何が違うのでしょうか。まずは、学校で教えるには教育職員免許状が必要です。学習塾や予備校は必要ありません。学校や国家試験があるから塾が成り立っているのであり、学校や国家試験なくして塾はありえません。これが根本的に違うところでしょう。ですから、塾の使命としては、塾の生徒の目標を達成させること(これはどの仕事でも同じでしょうが)であり、その手段としては専ら生徒の学校の成績を上げることにあります。ですから、塾では即効性の教え方が好まれます。例を挙げれば「公式の丸暗記」です。
 しかし、塾で成績が上がったことは、本当にその生徒のためになったのでしょうか。その答えは、今年や来年では分かりません。これは、大学に入ってから分かります。確かに、塾の目的は志望校に入ることです。しかし「入った後は野となれ山となれ」という方針でいる塾は、間違いなく淘汰されることでしょう。金で無理も道理にするアメリカ式資本主義経済はもはや通用しません。自生栽培は一切せず桁違いの金を投資して優れた品種を買い取ることしかしないどこかの球団は「優勝して当然」のところ優勝できていないではありますまいか。これが何よりの証拠です。
 確かに、塾が学校のおこぼれに預かっている以上、非常勤とは言え塾講師をしている私も「同じ穴の狢」でしょう。しかし、私はその中でも何とか公式の丸暗記ではなく公式を導く方法を教えられないか、という観点から授業をしています。これは誰に何と言われようとこの方針を変える気はありません(新しい工夫は出てくるでしょうが)。また、他の教科の説明でも「なぜそうなのか」ということを私なりに考えた解釈して解説しています。
 私は中学時代に、非常にいい数学の先生に当たりました。その先生はかつて数学ができなかった先生で、ご自身の経験からつまづきそうなところを丁寧に説明してくださった先生でした。もちろん、中学校で習う数学など数学の全世界の中ではほんの一部分に過ぎません。しかし、私はその先生の授業で「数学の本質」を垣間見ました。あるいは、予備校時代でも「数学の本質」を教えてくださった先生がいました。私は、少しでも多くの小中学生・高校生に「数学とは何か」をほんの少しでも知って欲しいと思っています。かつて、私が体験したように。

2005/08/28


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