何が本物で何が偽者か


 このホームページの名前の由来でも少し述べたが、「何がまともで何が馬鹿げているか」を見抜く眼を養うという故人の言葉があった。私は、もう一歩踏み込んで「何が本物で何が偽物か」を考えてみることにする。

 文字通り世紀末の頃(1999年頃)から、本物と偽物の区別すらつかぬ輩が増えているように感じた。これは、何もビトンのバッグの本物と偽物を見分ける力という意味ではなく、言ってみれば「まともなものと馬鹿げているもの」を見分ける力という意味に近いだろう。
 何がまともで何が馬鹿げているかというのは、目的がはっきりしているかどうかも関わっていると思う。目的がはっきりしている人というのは、大抵言動もまともである。
 例えば、大学の学部4年生で就職を希望している人を挙げてみる。
 大学4年生の就職活動では、毎年面白い傾向が見られる。
 就職をきちんと決めている人というのは、大抵大学のゼミナールに毎回きちんと出席している人である。そして、就職が決まらなかった人に限って「就職活動でゼミに出られません」と言ってゼミを休んでいた人が多い。普通は就職活動を多く重ねて来た方が決まりやすいと思われるのだが、これはなぜだろうか。
 ゼミにきちんと出ている人は「きちんと大学を卒業して就職する」というしっかりした考えが頭にある。だから、ゼミを大切にする。そしてそれが就職試験でも現れる。逆に、ゼミを疎かにしている人は「就職さえ決まれば卒業させてもらえる」という本末転倒な考えになっている。あるいは「就職が決まるともうゼミを休む口実がない」と思っている。これでは決まるものも決まらない。
 何かの言動を取るときには、何らかの目的がある。その目的がきちんとしているか馬鹿馬鹿しいかの違いなのかもしれない。
 こういうことを偉そうに述べている私も、時々目的を見失うことがある。感情的になると、どうしても思考回路がショートして、変な方向に行ってしまうことなどはよくある。そういうときは、何とか軌道修正しようとするのだが…。
 何がまともで何が馬鹿げているか、そして何が本物で何が偽物か。感じ方は人それぞれだが、自分なりの批判の眼や考えを持つのは重要なことだと思う。これからこの「批判屋」を運営していくにあたって、何が目的なのかも明確にするのが今の私の課題の一つだろう。

2005/05/18



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