「他人にうるさく自分に甘い」者どもへ


 昔から、他人に接するときの心構えとして「他人に優しく自分に厳しく」という言葉があるが、現実はその逆で、「自分に優しく他人に厳しい」輩が多い。これだけならば皆よく言う言葉である。しかし、これすら表現としては不十分である。正確には「他人にうるさく自分に甘い」輩であろう。ただでさえ「優しい」と「甘い」、「厳しい」と「うるさい」「ほめない」「文句ばかり言う」の区別がついていない者が多い世の中なのだから。
 私の周りで、この「他人にうるさく自分に甘い」典型的な例を挙げれば、私の父親である。いや、「であった。」としておこう。
 ともかく「自分の好き嫌い」=「世の中の善悪」と思っている自分勝手な輩だった。
 営業職という、他人(顧客)の心をつかむのが重要な鍵となる仕事をしてきたはずなのに、それが実生活で全く生かされていない。愚父は私に「俺は営業何十年もやってきたからお前の考えていることなど全てお見通しだ」などとよく言っていた。これが私の気持ちをちっとも分かっていない。それどころか、私が「こうして欲しい」「こう答えて欲しかった」ということをことごとく逆なでするような言動ばかりを取ってきた。それが確信犯なのか、それともイスカの嘴(はし)の食い違いなのかは知らないが、どちらにせよ、自ら「息子に軽蔑されるような父親になろう」という言動を取っているのだから仕方がない。「成功したら俺のお陰、失敗したらお前のせい。」という態度を露骨に表す。言わなければ絶対に気づかないし、言っても耳一つ貸さない。他人の話は最初から聞かないくせに自分の話を少しでも聞かないと途端に不機嫌になる。「他人の都合を考えろ」と言うくせに自分自身はこちらの都合など考えたためしがない。「自分で出来ないことを他人に強要するな!」というところである。
 普段自分の息子に不信感をもたれているくせに「いざとなったら俺はお前を助けてやる」と言い出したのだから冗談ではない。「誰がお前の助けなんか借りるか!」というところである。しかし、成人するまでの金銭面だけはどうしようもなかった。そこだけは私も認めるしかない。私の高校時代の友達の中には父親が“蒸発”したという人もいたらしいのだから、それに比べたらまだましだろう。だから「金銭面」だけは「恩返し」をするつもりだが、それ以外のことについては私は全く関知しない。なるほど。少なくとも高齢者虐待に関しては虐待する側が必ずしも悪くないということも肯ける。
 そういえば、これまでの小中高大、そして世の中にも「他人にうるさく自分に甘い」輩が横行闊歩していた。それも、官公庁や教員といった、人の模範であるべき職種の者が、である。授業中に間違った答えをしただけで立たせるくせに、自分が間違えても謝りさえしない小学校教員。自転車でちょっと二人乗りしただけで目くじら立てて怒るくせに、自分が自転車に乗って警邏するときは赤信号や「止まれ」の標識を無視する巡査。人の模範であるべき職種にある者が自分に甘かったら、それはただの給料(税金)泥棒である。いや、刑法で裁ける分、泥棒の方がまだましである。
 全部が全部とは言わない。だが、勤勉な行いよりも怠惰な行いの方が目立つのは確かである。人の模範であるべき職種もしくは役職に就いている者は、その辺のことをもう一度考え直す必要があるだろう。「自分は特別だから規則を守らなくていい」というのは完全な思い違いである。
 他人にレベル1の厳しさを要求したら、自分はレベル10の厳しさで遵守する心構えが必要である。自分自身が10倍の厳しさでそのことを遵守できなかったら、他人に注意したり命令したりするのはやめるべきであろう。何の説得力もないどころか、かえって不快感を持たれるだけだから。自分が会社の上司などでも、それは一応「業務命令」だから部下はそれに従うだろう。しかし、その命令に中身がないから、自分が思わぬ失敗をしたときにここぞというところでひっくり返されるのは想像に難くはあるまい。
 10倍の厳しさというのは誇張表現なのでそこまでは言わないが、せめて「人一倍厳しい」レベルで守る必要があろう。
 かく言う私も、将来自分の息子に「他人にうるさく自分に甘い」と思われてしまっては全く意味がない。自分がそういう目に遭ったのだから、それを生かして父親のような父親には絶対にならないという誓いを自分自身に立てている。尤も、それを評価するのは私ではなく私の息子なのだが。

2005/06/22


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